被爆体験談(1) A氏の場合

被爆体験談(1)

 A氏(仮名) 83歳(2012年現在) 男性 白髪長身

     《聞き取り時刻 2012(平成24)年8月20日 午後2時30分~午後4時》 

 

【1】原爆投下時

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前8時15分 

●場所 爆心地から直線距離で約3.5㎞附近

●状況 

A氏は昭和4年生まれ。当時16歳で広島県立第二中学校(現観音高等学校)の四年生。学徒動員で三菱重工観音工場の木型工場(船のギアボックスの木型〈鋳物の型〉を作製に動員されており、その日も朝から工場に出勤していた。尚、同工場の学徒動員としては、広島高等師範学校(現広島大学教育学部)・山中高等女学校の生徒たちがいた。

●体験談

 丁度、朝礼が終わって作業台に来たところでね、市内(北側)のほうが、パーッと光ったんですね。火の玉―言うか照明弾みたいなんが見えたんです。

 「何じゃありゃ?まさか、朝から照明弾じゃあるまいの!」

 そう言うたのは覚えとります。その時、1mくらい先に杉田いう同級生がおったんですが、そいつがね、何を思うたか、さっと作業台の中にかがみましたよ。そういう風に躾けられとったんですかね。「おい、どしたんや」って私が言いました。そしたら「ドン」ときたんです(その時、音と共に衝撃波を受けたという)。私は工場の一番真ん中におったもんですから直接の被害はなかったんですが、山中高等女学校の生徒が6人ほど、丁度窓際(市内方面)におったものが全員ガラスで怪我しましたね。女の子が顔から血を流してね、可哀相に。それで、何でですかね、喉が渇いてね、工場の東側に水道の栓があったんです。そこに行って水を飲んだのを覚えとるんです。

<備考>

A氏は直接、原子爆弾の閃光を目撃している。爆心地から直線距離で約3.5㎞も離れた場所であったにも関わらず、工場は北側(市内方面)を中心に半壊(たまたま木型工場が木造であったということもある。鉄骨製の他の工場の倒壊は免れた)した。凄まじい爆風である。また、A氏は無性に喉が渇いたというが、爆心地周辺の原爆投下直後の地表面温度は、熱線によって摂氏3000度から4000度に達している(因みに鉄の熔ける温度は1500度ほど)※1。その余熱が爆風によって工場までもたらされ、A氏は熱さを感じ喉の渇きを覚えたのだろうか。

【※1 図録「ヒロシマを世界に」(広島平和記念資料館発行)p54】

 

【2】避難行動

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前中(詳細不明) 

●場所 爆心地から直線距離で約3.5㎞附近

●状況

動員先の工場から西へ500mほど行った先にある川端沿いの防空壕へ避難する。

●体験談

 それで、ともかく避難しよう言うてね、現在広島西飛行場がありますが、あれがまだヘドロじゃったんですよ。そこに木枠で組んだ簡単な仮橋があって、それを渡った川端に避難所―防空壕を作っとったんです。そこに逃げたんです。その時、市内を眺めてみたら、黒煙がバーッと拡がっていきよったです。最初は市内の真ん中だけ黒煙が上がっとってですね、それがだんだん、だんだんと左右に拡がっていったんですね。どう言うたらいいですかね、火は見えませんでしたが、ともかく真っ黒い煙でした。青空は見えませんでした(当日の広島の天候は快晴)。その後、学校の先生じゃったと思うんじゃがね、「帰れ」って言われて、一人自宅へ向かいました。

 

【3】自宅へ

●日時 1945(昭和20)年8月6日 午前中(詳細不明)

●場所 爆心地から直線距離で約2.3㎞~1.8㎞附近

●状況

避難先から現空港通りを北上し、爆心地から直線距離で約1.7㎞の場所にある自宅(現西区小河内1丁目付近、現福島町派出所近く)へ向かう。途中火災に阻まれ、旭橋→己斐→己斐橋経由で迂回、自宅近くまで辿り着く。

●体験談

 それから(現空港通りを)歩いて、(地図を指して)ここ(現国道2号線と交わる交差点付近、爆心地から直線距離で約2.3㎞)まで帰ったら、この辺で、ガラスや何やらで頭や顔から血を流した怪我人を見ました。それから更に行ったら(約100mくらい北上)、火が上がっとって入れんもんですからね、引き返して、旭橋を渡って自宅のほうへ帰ろうとしました。それで己斐橋を渡って福島町の派出所(現在の派出所から西へ100mの場所、爆心地から直線距離で約1.8㎞)まで行ったところでストップしました。そこから先(約100m東に自宅があった)は火で入れんのんです。派出所も燃えかかっとりました。警察官も負傷してね、バケツも持たれんような状態だったです。そこで手伝うてバケツで派出所の火を消しました。

 それでそこにおったらたまたまね、お袋と一番下の妹と再会したんです、偶然に。それも、何も持たずにね、取り敢えず脱出したんでしょう。怪我はね、お袋は無事でしたが、妹のほっぺたに切り傷がありましたね、血を流して。それで雨が降ったもんですからね、「寒い、寒い」言うて震えて泣きよったです。その時の記憶は定かでないですが、雨が降るのは降ったんです。黒かったかどうかは分からんですね。「黒い雨」と言い出したのは遥か後のことですからね。その当時は気が動転したんと、何が起こったか分からんいうことで、そう記憶にないですよね。

<備考>

 当時は原子爆弾について、民間人は何ひとつ知らない状況だった。これまで経験も見聞もしたことのない被害の大きさにただうろたえるばかりだった。ただ、「新型爆弾が落ちた」という噂はひろまっていたという。

 黒い雨は、A氏の自宅のある広島市北西部を中心に、爆発の20分~30分後頃から降り始めた。爆発は、強烈な火事嵐や竜巻を生じさせ、高濃度の放射能を含んだ泥やチリを大気に巻き上げ、大雨となって1時間から2時間に亘って降り続けた。盛夏にも関わらず急激に気温が低下、寒くて震えるほどだったという※2。A氏の証言はそれを裏付けている。

【※2 図録「ヒロシマを世界に」(広島平和記念資料館発行)p71】

 

【4】避難場所へ

●日時 1945(昭和20)年8月6日(午後詳細不明)から翌日未明

●場所 爆心地から直線距離で約2.4㎞~3㎞附近

●状況

知り合いの家(己斐小学校の傍、爆心地から直線距離で約3㎞)へ家族と一緒に避難するため、再び己斐橋を渡り、山の手へ向かう。

●体験談

 この辺(旧己斐橋東詰土手、爆心地から直線距離で約2.4㎞附近、現在は太田川放水路造成のために削られて河川の一部となっている)に、まだ完全に出来とらんかったですが、防空壕みたいなんがありまして、やけどをしたのがね、皮がズルっと剥けたんがね・・・顔が腫れて、お化けみたいな恰好ですよね。「水をくれ」言うて。でも、あの時誰かがね、「水をやったら死ぬるぞ!」言うたのは耳に残ってます。何が何やら、何が起こったんか・・・。

 それで、たまたま己斐の小学校の傍に知り合いの家がありましたもんですから、その日はそこを頼って避難しました。己斐橋を渡ってその小学校まで行くのに(直線距離で約1㎞ほどの道のり)、両道端へ遺体やら怪我人だらけです。ひっきりなしです。道路端に親子連れとか、子供を抱いたまま亡くなったような、死体がゴロゴロです。知り合いの家も避難してきた人や怪我人が大分おりましたんで、家の中に入らず、その晩は庭で一晩過ごしたんじゃなかったかな・・・。ともかく、市内は夜もずっと(火災で)真っ赤で入れんかったですからね。すぐ傍の己斐小学校の中にも怪我人がたくさんおって・・・呻き声やらねえ、泣き声やらねえ、一晩中聞えとりました。生き地獄いうもんでしょうね・・・あれを今見たら卒倒するでしょうね。

 

【5】原爆の惨状

●日時 1945(昭和20)年8月7日以降(詳細不明)

●場所 爆心地から直線距離で約1.2㎞~3㎞附近

●状況

己斐の避難先から、自宅、母校の天満小学校、当時通っていた広島県立第二中学校の被害状況を知るために自らの生活圏を歩く。日時の記憶ははっきりとしない。

●体験談

 避難先で怪我をした人で印象に一番残っとるんは、やけどの痕に蛆が湧いとったことですね。原爆で背中なんかやけどしますよね、そしたらそこに蛆が湧いとるんです。何人も見ました。医薬品がなかったんでしょうね。本人は痛みで分からんかったんでしょう、蛆を払いのけようとはしてませんでした。そういうなんがケロイドになって残ったんじゃと思います。

 (原爆を落とされてから)何日目か分からんのんですが、福島川(現在は埋め立てられて廃川となっている)、いや、天満小学校(爆心地から直線距離で約1.2㎞、A氏の母校)に行ったような気がするから、天満川だったと思います。パンパンに腫れ上がった飴色の遺体が無数に川に浮かんどって、川一面いうことはないですが、あっちもこっちも(遺体が)流れとりました。それで、材木を引っかけるトビ(川に浮かべた材木を移動させるための棒状の道具)がありますよね、大人の人が、それで遺体を引っかけて、川べりへ寄せて集めとるのを見ました。

 それと怪我で亡くなった人は、今の観音小学校が元二中(A氏が当時通っていた広島県立第二中学校、爆心地から直線距離で約1.8㎞)だったんですが、その学校の校庭の東側で、丸太で木枠を縦横に組んで棚みたいなんをつくり、遺体をたくさん焼いてましたね。臭いはねえ、覚えてないねえ、感じんかったんかね・・・。もう街中で何か所もやってましたね。

 先に話した己斐橋の防空壕のところ(旧己斐橋東詰土手)でも焼いてました。その焼いた跡の骨を必死で何か探しとる人がおったんですが、金冠(金歯)を探しとったように記憶してます。こんな時にそんなことするんかいのと思いましたが、いやらしいとかなんとかではなく、とにかく他のことが大きすぎて微々たることのように映って、ただその光景をぼーっとして見てたような感じです。

 今思えば、その当時は感覚が麻痺してたいうか、気が動転してたんか、怖さとか言うのはあんまり感じんかったように思います。

 家(自宅)の焼け跡に行きましたら、たまたま家の隣りの主人がね、奥さんを探しとったんですが、遺体が見つかってね、「ああ、これじゃ」言うて・・・焼けて手足がなかったですね、胴体だけでした。

 私の父親は出かけとった場所(西観音町、爆心地から直線距離で約2㎞附近)が分かっとるもんでね、そこで焼けて白骨になっとりました。家はガラス商と質屋をしとりまして、私は親父の自転車に乗って(借金の)徴収に行ったり、手伝いよったのを憶えとります。まあ父は人がええんじゃけえ、(取り立て等)無茶を言わんかったです。それで人望があったんか、町内会長なんかしとってね。それが、46歳(数え年)で亡くなったんですけえね。

 

【6】終戦まで

●日時 1945(昭和20)年8月15日まで(詳細不明)

●場所 大竹市~岩国市

●状況

母の里がある大竹市に避難

●体験談

 それから、どこでどうしたておったか記憶は定かでないんですが、私は5人兄妹の長男で、すぐ下の妹(長女)が広島実践高等女学校(現鈴峯女子高等学校、爆心地から直線距離で約8㎞)の一年生でした。原爆当時はもう登校済みで無事でしたので、後からそこまで(長女を)迎えに行ったのを覚えとります。次女・三女は双子で、小学校四年だったと思います。二人とも集団疎開で砂谷(サゴタニ、現佐伯区湯来町)のお寺におりまして助かりました。ですから市内(旧市内)で被爆したのは両親と私と一番下の四女になります。

 その後、これも何時頃か定かではないんですが、母の里が大竹にあるんで、そこを頼って行きました。その時私は中学4年(旧制中学)ですがね、食欲がぜんぜんなかったですね。今になって考えればね、放射能の関係じゃったんですかね。食べるものもなかったんですがね、食欲がないんです。

 岩国の空襲があった時は山の畑のほうに行ったのを憶えとります。8月15日の終戦までの間ですよ。そこから空襲を見たんです。ザーっという雨の降る音ですよ、そりゃ凄いです。爆弾の音が雨の音です。ザーっというような。岩国の駅前から大竹のほう向けて、穴だらけですよ。今の大竹の石油コンビナートがありますよね、あそこに燃料廠があったですから、それがやられとるんです。あれは50キロ爆弾?100キロ爆弾?そういう大きな爆弾ですよ。(爆発によって地面に)10mくらいの大きな穴が開いとりました。

 まあ、考えてみればね、一番アメリカが怖い奴ですよ。そう思いますよ。大量殺人兵器はよその国はどこも使うとりませんよね。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも。

<備考>

大竹市は広島市から30㎞ほど離れた町で岩国市と隣接している。岩国への空襲は8月14日の昼ごろで、軍事工場を狙って3000発もの爆弾が落とされたという。死者は500人以上と言われている。

 

【7】戦後

 戦後メーカーに勤めてた時に、東京からメーカーの担当員が広島にやってきたんで、原爆資料館に連れて行きまして、その後宮島に連れてったんです。そこでお昼になったんですが、その担当員は(資料館を観た)ショックがあんまり酷すぎて、昼飯をよう食べなんだです。でも、まだあんなもんじゃないですよ。そりゃあ、(原爆の惨状を)見たら卒倒しますよ。道端に怪我した人間が一人転げとっても、卒倒するような姿ですよ。それがね、ざーっと並んどるんですから。指から皮膚がぶら下がって、お化けみたいな恰好で、顔は腫れ上がって・・・やけどしてね。そりゃね、まともに見られんですよ、水をくれ言うて・・・。家の近所の男の子も顔がずるっと剥けてね、多分亡くなったと思うんですがね・・・そりゃ、哀れなもんですよ。実際、体験したもんじゃないと分からんでしょうね・・・。酷い目に遭いましたよ、まるっきり何もなくなりましたからね・・・。とにかく何が一番か言うたら、世界中から原爆をなくすのが一番でしょうね。

 父が原爆で亡くなったんで、戦後、母子家庭で育ちました。兄妹5人皆、まだ元気で何とか頑張っとります。苦労いう言葉が嫌いなもんですから、皆頑張っとります。みんな筋金が入っとりますよ。

                                                       (了)

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