宗教的信が内に展開する願の世界(1)―曽我量深―【講演断片】

【淨寶 1927(昭和2)年12月10日発行分】

宗教的信が内に展開する願の世界(1)―曽我量深―【講演断片】

※曽我先生のお話はわからぬことで有名であります。それはこちらが浅くて、先生があまりに深いからであります。法正寺(広島市中区比治山町、真宗大谷派)での六回のお話をただ二回しか聞きませんでした。この断片は浅い記者の心にただ味わい得ただけの境地で、これが先生の全体で正しい記であると思うて頂いてはなりません。先生どうかお許しください。―諏訪令海

 

 信仰の直接対象は―事実として顕れたのは念仏行であるが―名号行である。但し、名号と言えば信仰を離れて特別に個然としたものがあるように思うたら違う。

 信に直接な対象、即ち内容は行というよりも、むしろ願である。念仏を信ずるとは本願を信ずるのである。本願を信ずるのが最も直接なものである。

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 信の世界をひらいてみると、いわゆる有るものは一つもない。ある意味から言えばただ空々としている。即ちもし我々が物質的な功果満足を求めると、そこには絶望の他ない。宗教を信じても、いわゆる満足はなくてむしろ失望に終わる。なぜならば、信仰の対象は正に未来にあるべき願であって、現にあるものは一つもない。

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 宗教を求めても、救いを求めても何も得られないという嘆きは、それはそもそも求め方が間違っているのである。それは宗教を求めると言うて、その実、物質を求め、法悦でなく、物質的快楽を求めているのである。

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 宗教では願そのものが行である。求め求めて求めることを必要としない純粋要求、即ちなんら別な功能結果を求めないで、しかも求めてやまぬ願い、それが宗教である。

 求めても得られないとい。如来を求めても如来が与えられず、救いを求めても救いが得られないという。その求めても得られないという失望を転じて、求めずして既に得たりという境地が、宗教満足の境地である。

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 浄土を願生するというが、浄土を求めても真実の浄土は私たちには心も言葉も絶え果てて、とても得られるべきものではないという、全く絶望のどん底に落ちて行くの他はない。しかもその生まれんと欲して生まれることのできない境地を超えて、絶望のどん底と満足の極致と一致した一点が、宗教信念である。

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 善導大師の二河譬喩は、この絶望のどん底と満足と一致した不可思議の境地を明に示したものである。

 一人の旅人が百千里の旅をしようとする。その旅人は群賊悪獣に追い立てられて走っていく。即ち物質的に求むる金や財産や、又は外的に求むる名誉や愛や学問や、そんなものは求むれば求むるほど、益々その欲求に苦しめられるので、それら外的なものを自分で追うていくことは、つまりそれらのものに自分が追い立てられていることと自覚して、これられの物質的外的なものから解脱しようという道を求めて旅を始める。その旅人はもし群賊悪獣に追い立てられることがなかったら、いたずらに堕眠をむさぼって道を求むることをしないであろう。

 西に向かって道を求めて旅を始めると、今の自分の求むる彼岸は眼の前にある。すると忽然として恐ろしい水火の二河を見る。

 今までは、ただ環境そのものが自分を圧迫する、苦しめると思うていたが、いよいよ切羽詰ったところに行くと、自分を苦しめるものは物質そのものでなくして、物質を欲求する自分の貪欲瞋恚の煩悩、これこそ自分を苦しめる根源であった。物質からは、かなり逃げて解脱して道を求めてきたと思うと、忽然と水火の二河が現れた。今度は逃げるに逃げられない。それは自分自身の内にある貪欲の水の河であり、瞋恚の火の河である。絶対絶望のどん底に堕ちいった。そこにしかも一つの白道があることに驚いた。前には、得られないまでもかすかにぼんやりと道はあるように思うていた。ところが今はそんなぼんやりとしたものではない、「すでに道あり、正に渡るべし」という道である。ある人の考え方から言えば、釈迦・弥陀二尊の招喚発遣の声をきいて、初めて第十八願になるように考えられているが、あながちそうではない。すでに道ありというその道は、本願の一道である。念仏の一道である。願往生心の一道である。

 同じ願生と言うても、今までの願生は、ただ物質的圧迫に責め立てられて、いやいやながらの願生であったが、今は願生しても、とても成し得られないという絶望のところに、しかも「已に道あり」。それは願生の功力があるかないか、果たして生まれることが出来るか、出来ぬか、そんなはからいを超えて、「已に今は願生の道あり」。だた此一道あり、そこに一の活路を見出した。今まではただ教えの道であった。今は求めても得られざるどん底に、しかも求めずして与えられた道。それは前からあった道そのままのものでありながら、しかも今は新しい道である。

 今までは道を外に求めていたが、今は道を求めるそれも道で、そのほかに道はない。願が即ち道である。道を見出したと同時に、二尊の声をきくのである。

 

                      ―(2)へ続く―

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