大無量寿経について(3)ー臼杵祖山ー

【淨寶 1928(昭和3)年4月1日発行分】

大無量寿経について(3)ー臼杵祖山ー

 

是等の意味を他の経典の一二について観るに、先ず法華経の五序六端につきて、この土即ち娑婆世界の釈尊説法の六瑞相と、他土即ち十方法界の諸仏説法の六瑞相とを説きて、一仏釈尊を囲繞せる荘厳相を説けるは、方便品の唯仏興仏乃能窮尽諸法実相と相照らして見るとき、また、梵網経の「我今盧舎那、方坐蓮華臺、周匝千花上、復現千釋迦、一花百億國、一國一釋迦、各坐菩提樹、一時成佛道」之は釈尊説法の相である。これらの上にも、一盧舎那仏の説法と、千華上の千釈迦と、更に一華百億国に現する各々の百億の釈迦とが相互に念照らせらるるの偉大不可思議相である、そのままが我らの心象として信嘗道破されるのである。

経文について単に学究的でなく、心象の融照を本として経文を味わうとき、これに文句以外に学級以上に、私の心琴に触れるもの、即ち如来自爾の躍動を見照せらるるのである。斯様な信嘗によりて見るに、十方三世の諸仏に百重千重囲繞せられて擁護せられつつある私である。それが決して私から頼んだのでないのに、向こうのほうから喜び護って下さるのである。この意味において経文にある不請の友ということを切実に感じさせられます。如来よりいえば、願われざるに友としてこれを親しみ護ること。私からいえば願わざるに友として親しみ護りて下さることである。これは大経に限らず全ての経には、不請の友、不請の法と説いてあります。全体仏法には己が救うてやるとか、助けてやるとかいうような絶対の権威者、独宰官的救世主はないのである。然るに一寸見ますと、阿弥陀如来は、救うてやる助けてやるという絶対の権威者のように思われ、また左様に思いなされてある。御文章に「阿弥陀如来のをほせられけるやうは末代の凡夫罪業の我らたらんもの罪はいかほどふかくともわれを一心にたのもん衆生をばかならずすくうべしとをほせられたり」と、又、散善義の二河譬には「汝一心正念にして直ちに来れ。我能く汝を護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。又、四十八願中に「若し生まれずんば正覚をとらじ」とあるは、これらは全く南無阿弥陀仏に救われた釈迦の御心もちを以て、阿弥陀仏の慈悲の内容を述べられたものである。阿弥陀仏自ら、直接に救うてやるぞと呼ばれたのではない。それは正しく救われた者が、救う人の心にあてはめたものである。私の方から言えば願わざるの友、如来の方より言えば、維摩経に「衆人請わざれども友として之を安んず」とあるが如く、仏は信ずる者は助けるが、信ぜざる者は地獄であるというような生殺与奪の権を持つものとは違う。その辺は罪を裁くという西洋の宗教とは余程相違点がある。仏法の世界はどちらからも合掌の拝み合いである。私からは仏様のおかげ、仏様からは衆生のおかげと拝み合い、双方にお互いに不請の友となることが仏教全体の尊い意味である。

華厳経の不請の友となり、常に勤めて無帰向の者を守護して世間(衆生)を捨てずとある。これが仏の心である。帰命したから助ける、それまでは救わぬ、つまりこちらの心次第で助けるという、そんなことではない。無帰向の者にこそ全力を注ぎ、決して諦めず守護して下さるのである。そこで信ずるからというのでなくして、自然に信ぜさせるを得ないことに至らしめらるるのである。親鸞聖人の御心には華厳経、涅槃経等の影響が非常に深いように思われます。華厳経にも深い深い他力の真味が説いてあるが、それが即ち阿弥陀仏のことである。今この大経と華厳経とを並べてみるときは、その意味一連の経であると言われる。それは大経序分の文と華厳経(四十華厳)最後の文と、その意味が同一であると言うてさしつかえない。大経には不請の友となると説いてあるが、何故に不請の友とならねばならぬかということが明了には分からない。この点において華厳経においては鮮明に説いてある。即ち、善財童子という熱心な求道者があって五十三人の善知識を次々に訪ねて行き、而して最後に普賢菩薩に由りて十大願を授けられ、西方極楽の阿弥陀仏の浄土に往生することを説かれ、結局は弥陀一仏におさまるのである。その十大願中の第九に、恒順衆生の願、恒に衆生を願うとは、即ち仏の存在は衆生によって顕れるのである。もし衆生をのけて外に仏の存在はない。これによって私たちはいつも仏様に親愛されているばかりでなく、尊敬されているのであります。この慈悲の親愛と智慧の尊敬との意をよく愛楽すれば、これだけで既に助けてもらう、もらわぬは問題ではない。我々はとかく他人根性を以て、どうでも助けてもらわねばならぬという水臭い心を持つのであるが、仏に愛され敬せられていることが分かれば、それが助かっていることである。特別に鹿爪らしく助けてもらわねばならぬというような、隔て心のないのが親子の間柄である。隔ての無い間柄ということが味わわれることが助かっていること。恰度純孝の子が親を愛敬するように、仏が私を愛敬して下さるのであります。そこにはおれが助けてやるぞというような、高い所から見下して、呼びかけるという態度は毛頭ないのである。私を親とし愛敬し、仏が子として純孝するというは、仏が私に対して助けさせて下さいという本願を建てて下さったのである。どうしてこんな本願を建てられたのか。それは迷うているものが可哀想だというだけでなく、何故ということ強いていうならば、弥陀は迷うている凡夫によってこそ、正覚を成じたのであるから、この弥陀が助けられ救われた一大善知識の前に合掌作礼して、どうぞ助けさせて下さるようにと願われる外にはない。これが第九の恒順衆生の願であります。今その経文を挙げて、その意を明らかにしたいと思います。

ー(4)へ続くー

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次