大無量寿経について(6)ー臼杵祖山ー

【淨寶 1928(昭和3)年5月10日発行分】

大無量寿経について(6)ー臼杵祖山ー

 

仏菩薩のお心持ちを思うて見るに、私たちの方から見れば最も尊いすぐれた方であるが、それが私たちから尊ばれ敬われ、また親しまれ近づかれる程、それ以上に、自らへりくだって我は悪人であり凡夫であると自照され凝視されるのが、世に比類なき聖者であることが道味あれる。それについて私は痛切に感ずるのである。それは今の大無量寿経の大衆は皆ことごとく神通体達の聖者ばかりである。元来本為凡夫兼為聖人、凡夫本意悪人正機の法、即ち南無阿弥陀仏を説かれたる経文に、悪人凡夫が一人もいないということであるが、ここに深く思いをひそめて愛楽甞味すべきことである。かの神通体達の聖者に対して、悪人正機の法を説くということは、ちょっと変なように考えられるのであるが、その実そうでない。もし左様でなかったならば、それこそ大変である。それは真実の聖者でなければ、本当に凡夫であるということが明了に分からないものであるからである。私たちは表面では自分は悪人であり凡夫であるなどと言うておるが、その実は仏菩薩以上に常に高上がりをしているのであります。同等もしくは以上のものより圧制を加えられるるのさえも苦痛を感じる習いであるから、ましていわんや自分以下の者より命令されるなどとは到底堪えられない苦痛である。それは自分が仏菩薩以上に高上がりをしている意味において、仏菩薩を自分以下の者として見下げるのである。一体私たちの性情は、自分以上の人に対しては反抗し、以下の人に向かっては軽蔑するというような、それが自分が左様な性情をもっていると同時に、他人からも自分が反抗され、また軽蔑されるように、邪推僻執を起こすのである。であるから自分が他人に対しても、また他人が自分に向かっても、何れの場合においても、自分の頭を抑圧され軽蔑されるにつけても、これに反して自分が他人の頭を抑圧し軽蔑するというに当りて、瞋恚の焔を燃やすのであります。私たちがたとえ言葉の通りに、自分を真実の凡夫と信ずるならば、他から何と言われても立腹しないはずであるのに、そうではなくて、直ぐに立腹するなどとは全く自分を覚知しないからである。こんな高慢な態度には、本為凡夫の意味は分からないであろう。釈尊が弥勒菩薩に対して、

「汝、無数劫よりこのかた菩薩の行を修して衆生を度せんと欲う。それすでに久しく遠し。汝に従いて道を得て泥洹に至るもの称数すべからず。汝および十方の諸天人民、一切の四衆、永劫よりこのかた五道に展転して、憂畏勤苦具さに言うべからず。乃至今世まで生死絶えず。」

と仰せられたに対して、弥勒菩薩は釈尊に対して、

「仏の重誨を受けて専精に修学し、教えのごとく奉行して敢て疑うことあらず」

と陳べられてある。これは世の生老病痛苦に沈みて楽しむべき何ものを持たない、一生苦悩して生死の根本を解脱し得ない、常に貪欲瞋恚愚痴の苦悩の憂いにある凡夫の実性を自照しないものには、この「教えのごとく奉行して敢て疑うことあらず」の信甞は得られないのである。言い換えれば、弥勒菩薩には釈尊の仰せに対して、疑心をさしはさむほどの賢さを待たない、全然愚痴無智の凡夫であることの凝視である。この極めて従順なる態度こそ麗しい「如教奉行不敢有疑」の信念の発露となったのである。

これに反して、私たちはいつも本願を信じ得ない危ぶみは、全く自己妄執より起こり来る一種の悲哀である。驀進し得ない躊躇逡巡は驕傲高慢にともなう内面の暗影である。如来本願ほどのいわゆる金剛堅固なるより、より以上に自己妄執の力を以て、却って本願を危ぶむことは恐ろしい強者であり、智者であり、聖者であるとの自己妄信の振る舞いと言わねばならぬ。

いわゆる凡夫本意とか、悪人正客とかの言は、それ他から符牒をつけられたものではない。全く自らが自らを真実に凝視したる相である。天地洞然胸中無一物の境地、唯有一乗無二亦無三の見地、究竟一条至于彼岸の妙域、その一物を無くし、一乗をも究竟し、一人の世界をも摧破したる無碍道に立脚してみれば、弥勒菩薩も真実に凡夫であり、悪人であるとの実感を道味されたのであるということが分かるのである。

ー(7)へ続くー

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