求道のとびら(2)-大内義直-

【淨寶 1927(昭和2)年10月10日発行分】

求道のとびら(2) -大内義直-

 真理は中道にある。中道は即ち正道である。

 『涅槃経』の中に、「一切衆生悉有仏性」と説かれている。人は本来仏とは異なったものではない。然るに事績において、吾人は仏と相隔たることが甚だ遠い。まことに吾人と仏との距離の遠さは十万億土を隔つると言ってもよいであろう。「阿弥陀経」にいわゆる、「従是過西方十万億土有世界名曰極楽」と言うのも、吾人と真の仏との相違の甚だしきを言ったものと見ることが出来ないでもあるまい。しかし、『観無量寿経』には極楽をまた、「距此不遠」とも説き、この現に迷える衆生を以てただちに仏の位を相続すべきものとして、『法華経』には、「一切衆生悉是吾子」と説かれている。されば斯く表面相違っている仏と衆生も、本来一なるものであるという自覚が、吾人の心の中にひらめいた時が、即ち天上天下唯我独尊の声の、胸に響き亘った時なので、この大自覚が実に人生の根本解決なのである。

 しかしながら、今現に物資欲望の宮殿に閉じ込められて、いわゆる深窓の中を一歩も出ることが出来ない。仏陀伝の中に「四門出遊」の談柄が記されてあるが面白いと思う。悉多太子、その臣阿誡多と共に城外に遊ばんとし、迦昆羅の東門を出づ。時に一老衰の人に遇い人生の哀れを感じ、悄然として駕を廻らして王宮に還御になった。他日、また南門をお出になった時には、病者の、肉落ちて骨立ちし哀れなるものの来るを見て、また出遊の思いを碍られて王宮に還られたが、次に西門を出た所が今度は死者の道に横たわれるに遇い、三たび悲痛の情に打たれて引き還し、第四に北門を出た時には、修行者の来るに会し、彼は何者ぞと問われしに、道を求めんとして修行するものなりと聞き、ここに出家の念忽然として禁ずべからざるに至ったということである。これは全く一つの譬喩であって、吾人がこの世を生に托して、唯利、唯欲これに逐うて、夢と過ぎ現と暮らしているものの、遂に来るべき運命は、曰く老、曰く病、曰く死の三つで、これは必然にして免るべからざる運命である。人はどうしても、この三つの門を潜らねばならない。五十年の生涯、如何に力を尽くしても、骨を折っても、一笑国を傾ける美人、力山を抜く勇士、観じ来れば、皆この山門を通り、最後は西門に一抹の煙と化するものだと思うと、誰人も衷心失望悲哀とに沈まぬものはあるまい。幸いにして、我々はこの失望と悲哀から逃れることの出来る唯一つの門が開かれている。求道のとびら、ここに開かれたることを見たる我々は、いつまでも深き迷いの宮殿に閉じ込められて、安んじていることが出来よう。しばらく釈尊求道の煩悶、心的経過を尋ねて、我々仏教徒の正道獲得の機縁としたい。(未完)

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次