必然と偶然(1)―境野黄洋―

【淨寶 1927(昭和2)年10月10日発行分】

「必然と偶然」(1)―境野黄洋―

前世の約束など言うことを申したならば、今の新時代の教育を受けた人々は、随分古めかしいことを持ち出したと思わるるでありましょう。何だか、古い講談本にでも出てきそうなことで、今の世に、こんなことを持ち出すものがあろうとは想像も出来ないほど、時代離れのした題目だと思われるに相違ない。ところが私は、それを極めて真面目に、極めて厳粛に、この新時代に提出しようというのです。

 人は自由を持っている。意志の自由を持っている。この意志の自由により、我々は各自の判断力により、自分自分の生活の針路を自由に選択し、決定し、そうして生きているのです。我々の世界は、即ち自由の世界です。しかしながらまた一方から考えて見ると、この自由の世界の半面には、必然の世界があります。この必然の世界は、我々の自由意志ではどうすることも出来ない世界で、ただ自分の自由をそのまま乗せて、この必然の世界に服従しなくてはなりません。例えば、私が今東京から広島に参ると決定して、東京駅に出る、そうして午後八時なら、午後八時の汽車に乗り込むと致します。その広島に行くときめたことも、東京駅から出かけるとしたことも、午後八時と定めたことも、皆私の判断力で、私の自由意志で決めたことでありますから、広島へ着いた時は、私は私の考えで来たことと思っています。これは私の自由の世界の出来事です。けれども更に翻って考えてみると、広島に来ると決心したのは、来なければならないわけが起こったためで、私の意志をそうしたのは、他に私をそうさせる事情があったからです。東京駅に出たのも、まさか中央線や中仙道線を通る必要がなかったからで、他の線路によるよりも、東海道線に乗り込むべく、必然の理由によったのです。時間もこれと同様で、自由意思の選択は、いつでも必然の事情と境遇によって支配されていることを発見いたします。そうして広島に着いたということは、私の自由意志で来たのではない、イヤでも来なければならない必然性に押されて、来させられたのだということを自覚致します。即ちそこに必然の世界があるので、自由の世界のそのままが必然の世界なのであります。

 植物や鉱物には思惟がありませんから、彼らの世界は単なる必然の世界です。動物には、低級の思惟がありますから、ここには狭い自由の世界が発現しています。しかし、その自由はなお極めて低度のもので、寧ろ必然性が多くのその生活を支配しています。人に至っては、その自由が特に顕著になっているのでありますが、しかし人も他の動物や、植物及び無機世界と同じ様に、宇宙全体の一部としては、宇宙自然界の法則による必然の運命の下に存在しているものなのでありますから、我々を動かしている大いなる力は、矢張り必然ということであります。この必然を自由の世界に立って眺めました時に、これを偶然というのであります。

 必然を偶然と言うと言うのは、全く反対のことでわけのわからぬことの様でありますが、しかし自由の世界には予期があります。自由の世界には、自己の意志による選択と、この選択の結果、どうなるかという予期がありますが、必然の世界には、必ずしも予期がありません。何となれば、必然の世界のことは、自然の力に支配されるもので、我々の自由意志には関係がないのでありますから、予期することが出来ないことがあるのです。たとえば大地震が起こるというようなことは、科学的に必然の現象でありますが、我々の自由意志とは関係ないのでありますから、これを予期することが出来ません。故に、この大地震によって善人も悪人も一斉にひとゆすりで皆破滅してしまいました時に、人皆偶然こんな目に遭ってしまったと申します。この偶然の出来事を名付けて運命と申します。故に必然の世界があるということは、人間の力では、どうすることも出来ない運命の世界があるということと同一であります。

 人は皆自己の自由によって生きていると思っておりますが、実は運命によって支配されて生きているものです。生まれながらにして貧しい家の子として生まれ、わらやこもの中に産声を揚げるものもありますが、反対にオギャアと世に現れた第一声が、綿布や錦繍の上に挙げられる人もあるのでありましょう。それがどちらが幸福かは別問題です。貧しい家の人として生まれたのが幸福となる人もあるでしょうし、富豪の家庭に生まれたことが、却ってその人の不幸の種になる場合もありましょうから、それは別問題として、兎に角かかる産まれ場所が、自分の自由意志にはよらない、純然たる運命の下に置かれているということ、既にその一生涯が、この必然の世界より、その第一歩を踏み出しているということではないでありましょうか。そうです。人はこの世に生まれ落ちた時から、既に運命の力の下にその生涯を托しているものなのです。

 運命は総てを支配している。そう申しますと、それでは努力しても甲斐がない、手を束ねて運命の到来を待つ他ない、「運命は寝て待て」だと思う人があるかも知れない。しかしそれは大なる誤解です。与えられたる運命は、人の予期を超越しています。必然の世界には、自由意志の予期はない。自分に与えられた運命を、誰が予期することが出来ましょう。自由意志によって選択され、これに向かって進んで行くのが努力です。この自由の世界の努力が、やがて自己の運命を発見する第一の道なんです。努力して行く中に、終には行くところまで行くということです。行くところまで行く、そこが運命です。どんなに働いても、どんなに善行を積んでも、どんなに立派な人でも、一切の予期を裏切って、ひとゆりの地震で死んでしまった時、誰がこれだけの運命なんだと思わない人がありましょう。この世界に踏み込んだらそれまで、それ以上は我々の自由意志の如何ともすることの出来ない世界です。さりとて予期の出来ないこの運命を、あてなしに待って、「運は天にあり、牡丹餅(ぼたもち)棚にあり」と、口をあいて待っている者が何処にありましょう。努力は、蔵されている運命を、盲目的に探っていく唯一の手段であり、この手段が自由意志の生活であり、それが人間の生活であり、人生であります。 

                    ―「必然と偶然」(2)へ続く―

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