大乗仏教は活動主義なり(1) -境野黄洋-

【淨寶 1927(昭和2)年12月10日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(1) -境野黄洋-

 

 どうも、仏教というものは、どういうわけか、日本では、古くから非活動的なもの、隠居仕事のように考えられて来たので、今以てそういう習慣が残っているばかりではなく、識者の間にさえ、往々そういう考えがあるのであります。私たちが仏教のお話をすると申しましても、恐らく「何かお寺で、お説教があるというから、婆さんお前は用がないで、行って聞かっしゃい」なんていう家も、少なくあるまいと思うのであります。「用がないから行って聞かっしゃい」、用のないものの道楽に、仏教は聞くものであるということになるのであります。お釈迦様は、迦毘羅の王宮にお生まれになり、どうも安楽な、勝手な生活の出来るお方であるのに、その王宮を捨て、妻子までも捨てて、そうして命がけでお聞きになりました。この仏教、しかも世界の大偉人が、命をまとにしてお聞きになりました。爺さんや婆さんの、道楽仕事に聞かれては、たまるものではないのであります。

 

●「一面は寂静」

 大乗仏教は精神主義である。精神主義であるならば「心あるものは皆救われる」のであるから、当然、平等主義であるべきはずである。既に平等主義である以上、誰彼の差別はない。同じ様に解脱の域に進み、同じ様に救済されなければならない。そこに無縁の慈悲が行われる。慈悲のはたらきの根源は、無我の道である―という順序になるわけであります。さてこの慈悲主義と無我主義との必然の結論は、どうしても活動主義ということになるのでありましょう。無我の力の上に活きる、その力の発動は、必ず道に合して、利他的には、慈悲行となって顕れるはずであるからです。それがどうして、従来の様に、仏教は退隠的なもの、静止的なものとなったのでありましょう。それにはまた、それぞれの理由がないわけではない。仏教には非常に静かなしめやかな思想が伴っていることは事実です。お寺の本堂に行ってご覧になりましても、本尊様は、非常に静かな態度で、眼を半眼に開いて、ジーッと坐っていられる。いわく「八風吹けども動ぜず」といった形であります。「精神の安静」、これ宗教にとって、我々の魂に休息を与えるところで、最も必要な要素の一つなのであります。悲哀とか靜寂とか、安静とかいう感じの仏教にあるというところに、私共は、大いなる共鳴を感ずるのでありまして、そのことは前のところでも既にお話いたしたことであります。しかしその方面は、つまり仏教の一面でありまして、仏教は全部悲観的なもの、安静寂静を旨とするもの、やがては退隠的なもの、非活動的なものというわけではないのであります。佛の寂然と坐って居られます、その寂静の坐には、大いなる活動の発する潜勢の力を蓄えているのであります。「無我の力」を湛えている佛の精神が、慈悲の活動となって、顕発せずにはいられないはずであります。もう一つは、日本では兎角、社会の敗残者、つまり世の荒波にゆられて、その動揺に堪えなかった人々、社会の競争に打ち負けたという人々が、仏教の中に逃げ込んできて、いわく安静の休息を求めることが、一般の習いとなり、お終いには、仏教というものは、それが仏教自身の本来の面目でもあるかの様になってしまって、隠遁者の避難所になってしまった形がるのであります。坊さんと言えば世捨て人と言われ、まるで情というもののなくなった、枯木の如きを理想として、「人には木のはしの様に思わる」などなど、清少納言にも言われるようになったわけであります。しかし、これも仏教の一面の話でありまして、仏教が日本に参りました最初の時代の如き、かの聖徳太子の仏教の如きは、決してそんなものではなかったのであります。

 太子は仏教の魂をもって、政治も軍事も、一切の活動を為されたことは、恐るべきほどのことでございました。仏教には静止の方面と、活動の方面とあるのでありますが、いつの間にか、活動主義は全く失われてしまったという形になってしまったわけであります。

 それに念仏教の流行につれまして、「後生を願う」ということが、非常に一般に盛んになりました為に、「この世はどうでもよい、死んだら極楽に参る」という考えが、なかなか広く行われるようになり、「後生願い」は老後の仕事、それまでは世間で働く、働いて後、後生に取り掛かるといったような、一般の考えが段々盛んになった傾きもあるのであります。これも非常な間違いでありまして、浄土念仏門の教えといえども、決して現在生活を無視して、それはどうでもよい、「仏教は後生一つ」とそんなことを教えるはずはないのであります。殊に真宗などでは、平生業生と申しまして、往生の後生願いは、平生の時に決まる。すなわち信仰を得た時に決まるので、信仰を得た後は、信仰生活に入る。その信仰生活、すなわち感謝の生活であると言って、現在生活の力を、「信仰的感謝」というものの上に、築こうとする努力を説くのであります。

 

―(2)へ続く―

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