大乗仏教は活動主義なり(4) ―境野黄洋―

【淨寶 1928(昭和3)年1月1日発行分】

大乗仏教は活動主義なり(4) ―境野黄洋―

 

●「日本仏教の特色』

 特に私がここに申し添えておきたいのは、大乗仏教という中でも、「殊に活動主義の仏教は、日本仏教の特色である」ということであります。日本人は、元来現実主義の国民であります。それでありますから、仏教が初めて日本に入ってまいりました時には、この現実主義の幼稚な思想と結合し、これに迎えられて、一種の迷信的な祈祷仏教が、非常にその色彩を顕著にしたわけであります。しかるに鎌倉時代になって、新しい仏教の機運が開けて、いわく禅宗、真宗、日蓮宗といったような、新仏教が成立するようになって参りますというと、昔時とは違う、いわく幼稚な現実主義とは違いますけれども、とにかく日本人の国民性とも申しますか、この傾向が著しくこの新仏教の上に反映してきて、活動主義ということが、どの宗派にも明らかに顕れてきているのであります。真宗の如きはいうまでもなく、浄土往生の教でありますから、純然たる未来主義であるべきはずでありますが、それでさえうまく現実主義に逆戻りしているのであります。

 何故かというと、一般浄土教では、皆、未来往生でありますから、「死んだ後の救済」ということを、大変やかましく申しまして、したがって、死ぬ時に心を取り乱してはいかん、臨終正念して、阿弥陀仏の来迎を受け、極楽からお迎いにお出で下さる仏様や、聖衆方に伴われて、極楽に行くのだと申したのであります。しかし、親鸞聖人は、これを逆に戻しまして、臨終正念ではない、平生の一念であると申したのであります。

●「法然聖人と時代の欲求」①

  法然聖人が、初めて一宗として、この浄土念仏教をお立てになりましたにつきましては、当時の世相が最も主要なる原因をなしていると思うのでありますが、それが、結局臨終正念往生という一つのところに帰してしまったのであります。法然聖人の時代は、平安朝末から鎌倉時代に遷る過渡期でございました。平安朝初期から政権を一門に握って、その全盛を誇って参りました藤原氏の勢力も、漸く末になりまして、武門のやからが段々とその頭を掲げ、鎌倉の武家政治に移る橋渡しのかたちで、平氏一門の横暴時代が現れたのであります。平氏の隆昌は殆ど花火のように瞬間的で、しかし非常に華やかでありました。清盛が、保元、平治の乱以来、トントン拍子で進んで参りまして、わずかに太宰大貳という、九州の地方官であった清盛が、平治の乱の翌年、朝廷に、いわば入閣して参議となり、それから八年の間に、終に太政大臣とまでなって、一門の繁栄、その極に達したのであります。私の書きました、日本歴史の一節を参考にここに引きます。

 

―(5)へ続く―

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