真宗学十回講座(第10講)②-梅原眞隆-

【淨寶 1927(昭和2)年3月1日発行分】

「第10講 浄土真宗の社会的考察」②

 第三の菩薩道。これは純粋修道の規範で、自利利他、自覚覚他、自分独りを利するばかりでなく、地上における最後の一人までも救われる世界を内容とした救いであります。自分独りが悟るばかりでなく、他のすべての者からも、真実であると認められるものでなくてはならない。即ち最も深い真実と愛の内にこそ、我々の救いがあることを信ずるものであります。これが今の菩薩道であります。この道を典型的に示したものが、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度の行であります。

 一切の群生(ぐんじょう、生きとし生けるもののこと)を真実の自分であるみて、広くこれを愛するの道である布施の行と、真実なるものに目をさました第六の智慧の世界とが六度の中心であります。この六度の行を念願とする魂の目ざめををもって、人生の一切を荷負して行ける勇敢な生活者が即ち菩薩であります。維摩や聖徳太子は即ちこの菩薩道の生活者であります。太子は目ざめた生活者であると共に非常になつかしい、うるおいのある菩薩道の体験者でありました。

 中宮寺の曼荼羅の銘の中に「世間虚仮、唯仏是真」(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)即ち人生のことはみな亡びる、その中に亡びざるものが只一つある。それは如来であると。この語が太子の口から出たとは尊い。太子の生活態度としては、ちょっとみると矛盾のようである。なぜなら、太子ほど如来の慈悲をこの地上に持ち来たそうと努力して、現実を愛した方は少ないからである。しかし、よく考えてみると、真に現実人生を愛する人こそ、真に人生の淋しさを味わう人である、人生のありのままを見通された、即ち目ざめた方であります。

 ある日、聖徳太子が片岡山へ遊行(ゆぎょう)なされたときに、飢えたるひとりの旅人が道端に臥しておりました。その旅人の姓名を問わせられたけれども、もはや、お答え申し上げる気力も失せてしまっている。太子は不憫に思召されて、飲食をお与えなされ、且つ、ご自身の召していられた衣裳を脱いで、臥せる旅人に着せかけて、一首の歌をものせられました。

 「階(しな)てる、片岡山に、飯(いい)に飢(え)て、臥(こや)せる、その旅人あはれ、親なしに、汝(なれ)なりけめや、刺竹(さすたけ)の、君はやなき、飯に飢て、臥せる、その旅人あはれ。」

 冬の日さびじく、階(きざはし)をてらす片岡山に、食べ物もなくて、倒れている旅人よ、何という哀れな人であろう。養うてくれる親もなくなったのか。それとも録を与えてくれる君主も見当たらないのか。食べ物も食べずに倒れている旅人よ。何という、いとしい人であろうと、いたわられました。

 時に太子は摂政の宮であられたのであります。あわれな旅人をご覧になって、御身の安らかさを保証する君主はないのか。これはほんとに申し訳のないことであると、摂政としての自責を感ぜられ、只一人の旅人に対して、あやきりながら、自分の着物を着せかけて「旅人よ、安らかにねむれ」と懺悔せられたのでありました。

                        〇

 親鸞聖人の宗教は、どうかすると人生の落伍者の前に開かれた簡易な道のように思われるが、決してそうではありません。聖人は凡人の世界における菩薩道の完成者であります。全ての人の前に同朋愛と愚禿(ぐとく)の意識をもって、立たれた方であります。聖人と太子を見ると、いかにもなつかしさと聡明さとを感じます。それは神の弱さと、強さを持っていられるのであります。

 宗教は何か一辺に限られた世界であって、お念仏なども歓びの時には親しみを感じられず、淋しい、悲しい時だけ親しみのあるもののように思うが、それは大なる誤りであります。歓びにもあれ、悲しみにもあれ、あるがままを受け容れるのが念仏であります。この菩薩道が大乗仏教の根底であります。

 宗教は自他共に本当に生きることができ、生活それ自身の内に本当に生きていける、根底の力を得られるもの、即ち、自利利他円満のものでなければ真の宗教ではありません。

 真宗で説かれる往相(おうそう)、還相(げんそう)は時の前後から言えば、迷いの世界をこえて証(さと)りの世界に赴く、これを往相自利の道と言い、真実の浄土に生まれたものが、我々の世界の全てのものを救うために還ることを還相利他の道と言う。しかし道の相(すがた)から言えば、この二相は道の両面であります。

                        〇

 我々は人間の名によって生かしてもらっている限り、聖道諸宗の即身成仏というような如来の完全さをこの土に顕すことはできぬ。これは上(親鸞聖人)の深い反省によるものであって、還相を永久の彼岸におかれた所以であります。

 それならと言うて、聖人の還相世界を救われたる者の余力、即ち救いの余剰価値、自分が助かって余裕があるから、次には他を救う利他の道をとると言うようなことではありません。親鸞聖人は証巻(教行信証の証巻)の内容として還相を出されてのであります。一切の衆生を救う活動は、ただ他を利するためのことでなく、それは自分が救われること、それ自身の内容であって、一切の者を救いたいという念願の愛に目ざめたことが、即ち救われた状態であります。

 今生では、いかに愛おしい、不憫と思うとも、存知の如く救けがたければ、この穢身を持つ限り、思うようにできない。この穢身を破った時に一切を救うことが出来ると信ずる。愛せられる者よりも、愛する者が先ず救われる、利他のための利他でなくて、自利のために利他であります。

                        〇

 真宗は理想郷を遠い彼岸の世界へ置く。従って永久の救いにはなるが、地上に活力を持った今の救いにはならぬように考える人がある。真宗中の学者の中にも、それがこの宗の特徴であるように思う人があるようである。

 理想の性質としては、一に現実そのものでない現実を超えたもので、二に何らかの形で現実を導く力にならねばならぬ。この二つがそろわねば理想ではない。我々は浄土の中へのみ、宗教的意識を置かないで、今回向(えこう)されている如来の慈悲を生かす、即ち我々の念仏の中にこれを生かすことが大事であります。

 言うまでもなく、この宗の理想は彼岸の浄土にある。西方は我々の理想郷を顕す。太陽の赴くところは生命の皈趣(きしゅ)、最後の理想のところ、即ち十万億土は迷いの世界を超越した最後の世界を意味するものであります。

                    (真宗学十回講座、完)

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次