おまかせの生活(2)ー諏訪令海ー

【淨寶 1928(昭和3)年2月1日発行分】

おまかせの生活(2)ー諏訪令海ー

 

 この「如来さまにおまかせする」という真宗の信仰は、ちょっと聞けばすこぶる簡単で如何にも安っぽい信仰のように思う人もありますが、決してそうではありません。これには全く大乗仏教の尊い極致が含まれているのであります。
 仏さまを礼拝するということは、ただ本堂やお内仏の前でお木像やお絵像を拝むのだけが真に仏さまを拝む所以ではないのであります。仏さまを拝む心を以て親を拝み、子を拝み、夫を妻をお友達を、そればかりではありません。一紙一粒にいたるまで勿体ないという心で拝む生活こそ、真に仏さまを拝む人ということができるのであります。
 これと同じように、「自分の計らいにまかさないで、如来さまにおまかせする」ということは、単に死んでから先の後生の問題にのみ関してではありません。我々は何事によらず自分の我利我利の計らいにまかすところには救われた安心の生活は得られないのであります。如来さまの声を聞く、如来さまの仰せに従うところに、はじめて真の救われた生活があるのです。

 今から十数年も前のことでありました。私の家へ曽我先生(曽我量深)に来て頂きました時、先生のお話に、
 「私は親猫が可愛らしい子猫を一生懸命に舐めて可愛がっている姿を見て、静かに自分を反省してその親猫の前へ頭を下げて懺悔せずにおれませんでした。それは私たちは折角我が子を愛しながら、ただ愛することが出来ず、その心の底には、こうもしておけば、やがてこの私のために尽くしてくれるであろうという心が潜んでいるのであります。私の愛は猫にも劣って浅ましいものであります。」と、涙を流して物語られた、敬虔な先生の態度が、今に私のうちにはっきりと残っておるのであります。
 「いや、私はそんな水くさい心で自分の子を育ててはいない」と思う方があるかも知れませんが、あなたが折角辛苦をして育てた子が成人して、もし年老いたあなたを捨てた時には、あなたの心に、「今まで苦労して育てて来た親の恩も思わないで」という腹立たしさは起こらないでしょうか。我々の心の底には何事によらず、この我利我利の功利的な心が殆ど無意識的に潜んでいる。それほど根深く心の底に食い込んでいるのであります。
 我が子を育てる甲斐を、身勝手な心で我が子の上に求めるところに、我々の救われない悩みが起こってくるのであります。
 私が二度目の子を失った時に、
 「あなたのように折角お子さんが生まれても、死んで去かれては、あとに悲しみが残るばかりで、それでは子を持った甲斐はありませんね。それを思えばむしろ私のように全然はじめから子を持たぬほうが幸せでしょう」と、ある婦人が言われた時、
 「何を勿体ないことを仰るのですか」と、覚えず私は叫びました。
 この世の中で私は親に成り得たことを何より深くよろこぶのであります。それは、たとえその子が五年、六年の短い生涯で悲しみを残して私をこの世において去ったとしても、なお、我が子に対して感謝せずにおれぬのであります。ほかの何ものによっても、到底味わうことのできない深い喜びと、そして悲しみを得させてくれ、私をしてほんとの生活をさせてくれたのは全く我が子であります。
 私の子はそれほどまでに尊いものを与えてくれたのに、私は我が子に何を与えたでありましょうか。それを思えば私はただ泣いて我が子の前に合掌懺悔せずにはおれないのであります。

 去年の暮れに、養老院その他への金品を募集致しました時、日曜学校のある生徒のおばあさんがお米を袋に入れて持って来て下さいました。これは何升ありますかとお尋ねいたしましたら、何升あるか分かりませんと仰います。計っておいでたのではありませんか、と言いましたら、
 「いえ、これは毎日お米を計る時、ほんの一握りずつ、つまんで年末に養老院のおじいさんやおばあさんたしに食べて頂こうと思うて、のけておいたのをそのまま持って来たのであります」と聞きまして、本当に嬉しく、押し頂いてお礼を申しました。

 県病院の看護婦長さんが、「こんなものでも受けて頂けましょうか」と、大きな箱を持って見えられました。開けてみますと、刻み昆布のような莨(たばこ)が一杯入っております。これはまたどうしたものですかと聞きますと、
 「これは沢山の看護婦の方と、毎日溜まっている莨の吸い殻を綺麗に整理して莨だけをとって貯めたのであります」と、申されました。

 人にものを施すことの尊さは、施した甲斐にやがて先で何ものか、私以外のものから私に報いられる、というところにあるのではありません。施物を受けて喜ぶ人よりも、一握りのお米をのけながら「これを養老院のおじいさんや、おばあさんに」という温かい心を毎日持たせて頂くところにこそ、施す者の恵まれた尊さがあるのであります。
 この子を育てておけば、やがては、ああもしてくれよう、こうもしてくれようというような、自分以外の子の上に、欲望を持つことは大きな間違いであります。日々、我が子を育てるというよりも、むしろ我が子によって自分が育てられていることが我々の実際であります。そこに日々、我が子に対して大いに感謝すべき甲斐があるのであります。

 わしが育ててやった、わしが施してやったと思うて、その甲斐を自分以外のものの上に求めるところには、既に真実の布施の功徳は差し引かれて、あとに残るものは「育ててやった、施してやった」という憍慢の心と、この心によってやがては「私は、ああもしてやったのに、それにあれは」という愚痴と、腹立ちの苦しみの炎が与えられるだけであります。

 私が育てた、私が施した、私がお寺へ参った、私がお念仏をした、と我が計らいにまかしたら、自分以外の向こうへその甲斐を求めるようになり、そしてそれが為に却って苦しむようになるのであります。
 自分にまかさないで、全てを如来さまにおまかせすると、育てるところに、施すところに、お寺参りをする、お念仏を申す、そのありたけのうえに、自分以外のものによってでなく、自分の内に尊いお救いを味わわさせて頂くのであります。

—(了)—

 

 

 

 

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