おまかせの生活(1)ー諏訪令海ー

【淨寶 1928(昭和3)年2月1日発行分】

おまかせの生活(1)ー諏訪令海ー

 

  それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。
しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。【親鸞聖人 教行信証信文類序より抜粋】

 この間、あるところへお話にまいりましたら、
 「私は今日こそご信心を得たいと決心して、いつもお参りをするのでありますが、どうも・・・・・・・・・・。」
 と、口ごもりながら言いにくそうにある方が申されました。
 「それはお気の毒であります。が、あなたの今日こそ得たいお思いになるご信心というのは、どんなご信心なのですか?」
 「それは、いつ死んでもお浄土へ参らせて頂くに間違いないというご信心をしっかりとこの私の胸に頂いて、安心がしたいのであります。」
 この人が求めているようなご信心が得たいと思うて、しかも得られないと言うて、いつまでも苦しんでいる方が随分沢山あるようであります

 「いつ死んでもお浄土へ参らせて頂くに間違いないというご信心が頂きたい。」と言えば、その言葉は一通り筋道が通っているようでありますが、その言葉の底を流れている、というよりも、もっとその言葉の土台となっている心持ちをよく考えてみますと、これは、わしがわしがの醜い我執我慢がご信心ご安心という紅白粉をつけて、いかにも美しそうに装うて化けているのではありますまいか。 

 昨晩もある方が言われました。
 「今朝、早くお寺の鐘がなりますので、お参りをしようと思いましたら、うちの人が、お前のようにお寺の石段がちびるほどお参りをしても、何こそ参った甲斐がないではないか。そんなことなら手間ひまを潰してお参りすることは、やめた方がましじゃ、と言われました。」
 この「参っても参っても、参った甲斐がない。」という心持ち。それは、私たちは何をしてもそのしたことの他に、これによって別の何ものかを得なければその甲斐はない。でなければしても全く損であるという心持ちが、いつも離れぬのであります。

 一日働けば二円五十銭になる、この学校を卒業すれば中等教員の資格が得られる、大学を卒業すれば学士になれる、女学校を卒業すれば先ず一通り嫁入りの資格ができると考えるのであります。

 働くことよりも、勉強することそれ自体よりも、お金になりさえすればよい、資格さえ取れればよい、もっと十分を言えば働かずに徒衣徒食していることが名誉ででもあるかのように思い、勉強して自分の内を充たすことは思わないで、卒業証書を握ったが最後、勉強にいとまを出す人であります。
 何をしてもただでは働かぬ、全てがそろばん勘定であり、私たちの心にはこの飽きない根性が随分根深く食い込んでいるようであります。

 お念仏をすれば、どうかなるのでありますか、ご信心を得さえすればお浄土へ参ることができるのでありますか。
 お念仏やご信心にまで、飽きない根性で取引をしようとするのであります。そして「この我が胸に、しっかりとご信心を得て」、いざ臨終の夕べになったら、これでお浄土へ参らせて下さいと、我が得たご信心でお浄土参りの取引を済まそうとするのであります。
 そんなご信心ご安心は言葉はなるほど美しいけれども、その本質の心持ちは、全くわしがわしがの我執我慢が化けたものに過ぎぬのであります。こんな心持ちのもとに、よしご信心が得られたと思うて一時はよろこぶことがあって、やがてはそれが壊れたというて泣かねばならぬ時がきっと来るでしょう。それはむしろ当然のことであります。みにくい我執我慢が信心安心という美しい紅白粉を塗って、一時ごまかしていたに過ぎぬのですもの。つけたものが剥げるのは当たり前であります。

 それならと言うて、仏法には何をしても一向にその甲斐がないのかと言うと、決してそうではありません。大いに甲斐はあるのであります。しかしそれは我々の我執我慢が望むような甲斐とは全然そのものがらが違うのであります。
 私がお寺に参り、私がお念仏を申し、私がご信心を得たからその甲斐で助かる、お浄土へ参って楽しみができるという、そんな甲斐があるのではないのであります。
 この私がお寺に参り、お念仏を申させて頂いておるありたけが、そのまま全く私の救われていく姿なのであります。私が念仏したから如来さまが手を延ばして、救うて下さるのではありません。もっと直接に如来さまのお救いが私の念仏となって下さったのであります。念仏は私の叫びであって、そのまま私を呼んで下さる如来さまのお呼び声であります。お念仏を申すとその甲斐で、やがて地獄に堕ちないで済むのではありません。如何なる苦しみ悩みも、たとえ恐ろしい地獄の炎も涼しい風とするのがお念仏であります。お念仏することそれ自体がお救いであります。このありたけに目覚めさせて頂いたのが、とりもなおさずご信心であります。

 どうも、いくらお寺に参って聴聞しても一向にその甲斐がない、折角お念仏を称えても時には飛び立つような喜びを味わうこともあるが、大抵が借りてきた猫のように、油に水を差したようにどうもしっくりしない。こんなことではまだお慈悲が頂けぬのであろう。と、こんな嘆きを持つ人は、全くお慈悲をそろばん勘定で取引しようとする人であります。自分がお寺へ参り、自分がお念仏をし、自分が信心を得ねばならぬと思うて焦っている人であります。私たちのそれらのものを、どれだけ積み重ねてみたところで、それはただ醜い我執我慢を積み重ねたに過ぎないので、積み重なるほど醜さを増すばかりであります。そこには安心どころではない、ますます不安が兆して、遂には臨終来迎をたのむより他に道がなくなるのであります。

 真宗の信仰は南無阿弥陀仏の他にないのであります。南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に南無することであります。南無とは帰命、帰命とは阿弥陀仏の勅命に帰順すること、即ち阿弥陀仏の仰せにまかすことであります。
 私たちは自分にまかしたら我執我慢の他にないから、ろくなことにはならぬ。折角お寺に参り尊いお念仏を申しても、そろばん勘定の商い根性でガリガリの取引よりできぬ。そこで、このわしがわしがの自分にまかさないで、如来さまの仰せにまかすのであります。如来さまの仰せは、「お前に対する、私の名乗りである南無阿弥陀仏を聞いてくれ。そして、私の名である南無阿弥陀仏を称えてくれよ。」との仰せであります。この仰せに従うて仰せ通りにお慈悲を聴聞し、お念仏をさせて頂くことの他に別に、救われていく道はないのであります。
 「それなら、その仰せに従うて、お慈悲を聴聞して、お念仏さえしておれば助けて頂けるのでありますか?」
 さあ、その「こうもしたら、これで助けて頂けるか?」というその心持ちは、また商い根性のわしがわしがの手を出して、如来さまにまかしていない証拠であります。私が聴聞してお念仏したからお助け下さるのではありません。ただ仰せに従うてお慈悲を聴聞して、お念仏をさせて頂いているありたけが、そのまま救われて行く姿なのであります。

ー(2)へ続くー

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