何となくありがたい ー諏訪令海ー

【淨寶第8巻第5号 1928(昭和3)年5月10日発行分】

何となくありがたい ー諏訪令海ー

 

「何となくありがたい。」

こうした心持ちはちょっと考えると、いかにも力なく、たよりないように思われるのであります。

私たちは何事に対しても水際立って、これこれというような、はっきりとした心持ちがつかみたい。仏様を信ずるということも、南無阿弥陀仏の親さまといよいよ親子の名乗りをあげて、これで本当に大丈夫であると安心したい、こうした確かな水際が立たなければ、安心がならないように思うのであります。

この間、私の知人の家が養子をもらいました。その家はよくお寺参りをするお母さんと養子娘とただ二人きりで、相当裕福な家であります。養子さんは昨年ある大学を出た、宗教心のある模範的な青年であるということでした。

三三九度の式もめでたく終わり、親子の盃がすんだ時、お母さんが、

「不思議なご縁で、こうして親子の因縁を結ばせたもらったことでありますが、これからは私はあんたをほんとの子と思うから、あんたも私を、ほんとの親と思うて下さい。」

と、申しました。養子がもちろん、

「ありがとうございます。私はこれからあなたを、ほんとのお母さんと思うておつかえ申します。」

と、返事する事を待っておりました。養子は何の躊躇もする様子もなしに、

「それは無理ですよ。ほんとの親でもないあなたを、ほんとの親と思えなんて、そんなことができるものですか。」と、はっきり答えました。

昔風のお母さんは実に驚いたばかりでなく、

「今度の養子は宗教心のある、よい青年であると聞いていたのに、これはまた案外不心得な者であった。」

と、非常に立腹したのであります。

あとが、どさくさもめて私に相談がありましたが、

「いや、それは却って見込みのあるよい青年であると思います。」

と、いろいろ私の考えを聞いて頂いたことであります。

「私はあんたを、ほんとの子と思う。」

「私はあなたを、ほんとの親と思います。」

と、言うことは、とりも直さず、それがほんとの親子でない証拠であります。

私は私のお母さんに対して、かつて一度も、

「私はあなたを、ほんとの親と思います。」

と、言うた覚えはありません。もし、お母さんに対してそんなことを言ったら、

「何を今更、そんなことを言うのか。お前は一体どうかしているのではないか。」

と、きっと笑われるでしょう。

真実の親子は今更らしく、水際をたてて、親子の名乗りをあげる必要のないほど、直接なそのものであります。

今更、水際立てて「親子じゃ」「子じゃ」と名乗りをあげねば安心できないと思うのは、それが即ち水くさいまま、子根性なのであります。

もっと直接に私どもと一つになっていて下さるのが、南無阿弥陀仏の親さまであります。

私はお母さんに対して、取り立てて水際だって、親を親として頂いた日暮らしをしているかというと、決してそうではありません。それどころではない、むしろ、親を親とも思わぬ不幸な日のみを送っておるのであります。しかもその中から、

「何となくありがたい。」

とでも言うより外に、言いようのない勿体なさ、尊さを感ずるのであります。

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